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2019-03-10 [雑記]

Voice of Budda から

スッタニパータ144
http://microsamgha.com/2016/03/23/%E3%82%B9%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BF%EF%BC%91%EF%BC%94%EF%BC%94/

第一 蛇の章

<8、慈しみ>

144 足ることを知り、わずかの食物で暮し、雑務少く、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の(ひとの)家で貪ることがない。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

足ることを知り――僅かのもので満足することを足るを知る「知足」という。満足していることを、サンスクリット語でSamtustiというが、これを「知足」と訳している。またtustiやsamtustaを「知足」と漢訳していることもある。さらにsamlekha(質素)を真諦三蔵はやはり「知足」と訳している。このように訳したのは、老子の理想に一致するものがあったからであろう。この理想が日本に受け入れられ、自分の持ち分に満足し安んじて、欲張らないことが、日本でも古来理想とされてきた。(中略)考えて見れば、足るを知ること、すなわち自分の持ち分に満足して喜びを見出すということは、だれにでも可能な〈幸せへの道〉であると言えよう。原始仏教、老子、ストアの哲人たちによって、古代のほぼ同時代――多少の年代的な前後のずれはあるが――に説かれたことは興味深い。

わずかの食物で暮し――subharo.原義は、「世俗の信者たちから見て、養い易い」という意味である。「ビクが、米や肉や粥などを鉢に満ちるほど与えられても、不機嫌な顔をし、不愉快なさまを示し、あるいはかれら〔信徒〕の面前で『お前たちは何をくれたんだ?』といって托鉢の食物を喜ばないで、見習い僧や世俗人たちにくれてやるならば、このビクは養い難い人である。人々はこれを遠くの方から見て、避けてしまう、――『このビクは養い難い』といって。しかし、粗末なものでも、美味なものでも、多少にかかわらず得たならば、喜んで、愉快な顔をして行くならば、このビクは養い易いのである。これを見て、人々は非常に安心して、『この尊師は、われらにとって養い易い。僅かのもので満足してくれる。われらはかれを養いましょう』という願いを立てて、養う。〈養い易い〉というのは、このような趣意である」。

諸々の(ひとの)家で貪ることがない――托鉢行者が世俗の人々の家に近づいて物を欲しがることをいう。「家の内部について〈これこれの人にうちには何があるだろうか?粥だろうか?固い嚼む食物であろうか?じゃぶじゃぶ吸う食物であろうか?あなたはわたしに何を示してくれますか?今日われわれは何を食べるであろうか?何を飲むことになろうか?〉などと語る」のは、執著である、というのである。

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